心のともしび 1日一編の法話
「竹」にまつわる禅語に「竹有上下節」(竹に上下の節あり)とあります。
竹には上下に沢山の節がありますが、上下はそれぞれ形も大きさも違います。
しかしその一つ一つには優劣の差はなく、しなやかで強い「竹」を形作る大切な物です。
人間社会でも一人として同じ人はいません、親と子、上司と部下など社会的な上下関係はあっても皆平等です。
男女の区別はあっても、それは差別であってはなりませんね。
ジェンダーフリーが盛んに叫ばれる昨今、今一度「竹に上下の節あり」という言葉の持つ意味を深く味わって生きたいと思います。
また「病は肉より起これば治しやすし、節より起これば治しがたし。」
と日蓮聖人は言われました。
節というのは厄年の事と思われます。この言葉を心にとめて、厄年を穏やかに過ごしていきましょう。
行雲流水的な生き方・・・?
風が吹けば風に身を任せ流されよう。
流れる川の中では無理に岩にしがみつくことをせず身を任せる。
このように、何事にも執着することなく生きていけたらどんなに楽であろうか?
いやいや、これはかなり難しい生き方かもしれません。
本来人間には、沢山の欲があり、欲するものを手に入れる為に時には人と争うこともあります。
その上で達成感という喜びを得るのです。
その喜びをすべて達観した人こそが「行雲流水」的な生き方を実践できるのです。
柳の枝はゆらゆらと風に揺れ、しかし折れることはないのです。
誰もが一度は耳にしたことがあるでしょう。
「一期一会(いちごいちえ)」という言葉。
一期というのは仏教では人が生まれてから死ぬまでの間・一生の事です。
また、茶道を確立した千利休の言葉として認識されている方も多いと思います。
今日たまたま電車でとなりに座った人とは、おそらく今後二度とは会う事はないかもしれません。
そう考えると人と人の関わり合いが楽しく感じられます。
今、近しく付き合っている友人との最初の出会いを考えてみてください。
どのようなきっかけで言葉を交わすようになったのでしょうか?
数十年前にたまたまクラスが一緒だった・家が近所だった。
何かのきっかけで親しくなり、その後の人生においては何十年来の親友となった・・・。
このような事があるのではないでしょうか?
人は一人では生きられません、一期一会を大切にし、より良いい人生を歩んでいきたいものですね。
私たちが日常の生活の上で頻繁に使っている言葉の中には、実は仏教に起源をも持つ言葉が沢山あります。
「有頂天」という言葉、仏教では、形ある世界(色界)の最上位の世界という事です。
「有頂天外」とはその最上位の天からさらに外に出るという意味で、世界の絶頂、この上ない喜びの事を表す言葉になりました。
しかし、現在私たちはこの有頂天になる・・・という言葉を良い意味では使っていません。
あまりの嬉しさのあまり、他の人の事を考えず他人をに不愉快にさせてしまう人の事を冷ややかに「有頂天になっている人」
と表現します。
考えると、歳を重ねた今よりも若い頃は「有頂天」になっていた事が多かったように思うのは私だけではないのではないでしょうか?
確かに人は若さを失うごとに。出来ない事が多くなっていきます。困難は増えていきます。
若い頃に比べると、多くなっているのは心を許せる本当の友人であり、兄弟・家族ではないでしょうか?
若い有頂天だった頃の自分を振り返り、自分は人を傷つけてきたのではないか? 不愉快にさせてきたのではないか?と考える事もありますね。
これからの数少ない「有頂天」なれる機会には周りの気持ちも考える事にしましょう・・・。
それが出来る年齢になったのですから。