了圓寺の歴史
※了圓寺の創立・開基・縁起その他
〇1573(天正元年)安土桃山時代
初代 柏原治良兵衛、上杉の門村に住む。(織田信長と明知光秀の丹波侵入時代)
〇1579(天正7年)
安土桃山時代。分家(1579~1591)北有路村へ、家紋「丸に柏。」(寛永10年)1633年姓を平野と改める初代平野家(明治2年)1869年版籍奉還で舞鶴藩知事とな る。
【平野家について】
平野家は度重なる由良川洪水の為被災し貴重な資料を流失したので、不明な点が多い。口云の因ると楠木正成の縦臣柏原氏の末裔と伝えられ、江戸時代の初め頃よる有路に移り住み、その後柏原氏が丹波上杉(綾部)に移住・帰農した。 天正年間、分家して北有路村に居を構えたと云い、戒名に「春岳林夢大居士」寛永10年没とあるのが平野家初代とされる。姓は柏原、家紋は「丸に柏」屋号を久宝寺屋と称した。 寛永年間二代が上杉の柏原家の建立と言われる綾部了圓寺(日蓮宗)の檀家となった。 寛永八年(1668)に牧野親茂が、河内より田辺に転封されたが、牧野家の家紋が「柏」であったので姓を平野と改め、家紋も「鷹の羽違い」とした。 藩主牧野氏御用達となり苗字帯刀も許され、代々舟改めとして由良川舟運の管理を任されるなど活躍してきました。 明治維新後も酒造行、機業(はたぎょう)を経て明治33年には平野銀行(後に京都銀行)を設立するなど隆盛をきわめ、北有路地域の経済・文化の振興にも大いに貢献しました。現在記念館となっている主屋は明治42年(1909)12代吉左衛門氏(平野家では、投手は吉左衛門を襲名)によって建てられたものです。
〇1615(元和元年)
長源山本泉寺を創建 大島岡の段に創建、日蓮宗本圀寺末で長源山本泉寺と称した。開山長源寺院日泉上人は大志万勝兵衛景次で、大島の産である。その後数年たった時、大風害を受け寺は倒壊した。そこで、一時修理を加えて、二代目尊竜院が尚2.3年住職を続けていたが、ついに無住となって荒廃するに至った。 正保二年九月(1645年)本泉寺を廃し、その代わりとして綾部北西町に了圓寺が建立された。
〇1638.2.7
初代柏原治良兵衛(寛永15年)逝去
※縁起その他 当寺元、市内大島村に大破し再建なり難き法華寺と称する堂宇あり、檀中の内綾部村住人柏原九良兵衛兄弟により船井郡木崎村、法華山大乗寺四代住僧円覚院日眞聖人を招聘し領主九鬼式部少輔公より島嶼引き移し再建を許可された。尚、九鬼式部少輔公より了圓寺屋敷之内永久寄付朱印状あり。
〇安永3年9月(1774)
創立 了圓寺境外仏堂 妙見堂(綾部市野田町須知山) 須知山峠は人跡絶たる深山で旅人、賊に逢者おおし、道中安全を願い、了圓寺 檀徒綾部村住人蘆田五代目新右エ門、妙見宮勧請を願望し一四代本光院日儀大徳を請待し須知山内中に堂宇を建立せり。
【了圓寺 歴代住職】
開祖 円覚院日眞上人
二世 文清院日明大徳
三世 慈雲院日勝大徳
四世 恵光院日遥大徳
五世 寂照院日進大徳
六世 守玄院日種大徳
七世 泰然院日穏大徳
八世 栄立院日玉大徳
九世 千如院日迨大徳
十世 法雲院日啓大徳
十一世 常宣院日正上人
十二世 普照院日恕覚位 保進院日普上人
十三世 自然院日周上人
十四世 信静院日顕上人 本光院日儀大徳
十五世 信順院日廣大徳
十六世 唯心院日敬上人
十七世 慈照院日恕大徳
十八世 一如院日領大徳
十九世 稱理院日性上人
二十世 歓喜院日仰大徳
二十一世 恵隆院日曜上人(本堂再建上棟主)
二十二世 王明院日容大徳 観照院日審上人
二十三世 天禮院日治大徳
二十四世 観照院日審上人
二十五世 高照院日造大徳
二十六世 和光院日朱大徳
二十七世 頂法院日祷徳位
二十八世
二十九世
三十世 事常院日憲
三十一世 日旺
三十二世 無上院日東
三十三世 普明院日心
三十四世 本光院日稠大徳
三十五世 義明
三十六世 常讃嘆院日斌上人
三十七世 聖鱗院日正上人
三十八世 寂光院日禯上人
三十九世 聖学院日成上人
四十世 聖浄院日喨上人
四十一世 浄敬時代